慶応4年(1868年)、戊辰戦争最中。会津藩主・松平容保は旧徳川諸藩と同盟して新政府軍(官軍・西軍)の進撃を阻む一方、朱雀、玄武、青龍、そして藩主の親衛隊として組織された、15歳から17歳の少年たちからなる白虎隊を編成。同年8月22日、鶴ヶ城下の滝沢口に出陣しました。
圧倒的な軍事力を誇る官軍の進撃に、容保は白虎隊の出撃を決断、隊長・日向内記の進言を受け入れ、居城に退いて戦況を見守ることとします。
少年たちは初陣に胸踊らせて戦場へと向かい果敢に戦いますが、白兵の乱戦となる中、力及ばず退却することに。疲労と空腹に耐え、飯盛山へとやっとの思いで辿り着きますが、炎に包まれた鶴ケ城と城下を目前にし、これを落城と見た隊士たちは次々に自刃、会津武士として殉節を遂げるのでした。
当社比1.4倍(爆)白虎隊員・大島卓也さんと脇谷広志さん。
脇谷さん、脇腹を切られて苦しそうですが、ここで大島さんが体起こしたら、もっと傷口が開く恐れあり。ダメじゃん!
この後「お先に御免!」を家でマネする子供達出現。次々に刀を突き立て、ばたっと倒れ伏すのだそうで。お芝居を理解できなかったとしても、インパクトは大きかった模様。

官軍兵の山田清崇さん。
観客含め、視線の先には何があるのか。
官軍の皆さんは、揃いの衣装と兜のせいで乱戦になると誰がどこにいるのかまったく追いきれず。

左から酒井博史さん、ダダる滝田明仁さん、宥めモードの山田さん。

酒井さんと綺麗に重なってしまってますが、横に誰かいる…よね?

櫓裏で待機中の官軍の皆さん。畝狭さんが遊びにきてます。

…で、近寄りすぎて山田さんに見つかってしまいました。

終演直後の酒井さんと鹿島択郎さん。大忍者メイクのままなのですね。

大砲の微調整をしている鹿島さん。もうお一人はどなたか確認できず。
 
終演後、無防備に脇谷さんが歩いているのを見付けダッシュで捕獲した時の写真に後日サインを入れていただきました。が、マジックがイケてなかったので、更にもう一枚。

■白虎隊補足
8月22日、藩主の命を受け、中隊を率いる将校として、隊長の日向内記、水野祐之進・山内弘人(小隊頭)、佐藤駒之進・原田克吉(半隊頭)らが、少年たち37名と戦場に向かいます。途中、食料調達のために隊長の日向は道を戻りますが、陽が落ち降り出した雨のため道に迷い、隊の元に戻れません。
翌23日。空腹と極度の緊張の中、冷たい風と霧に包まれた戸ノ口原で、西軍の先鋒・土州兵と戦いますが、武器の質がまるで違う上に大垣兵も加わり、会津軍は丘陵まで撤退。濃い霧と戦場の混乱から将校を見失い、17名の少年たちのみとなります。
そして篠田儀三郎が指揮を取り、退却を決断。
負傷した友を庇いながら、猪苗代湖の水を会津へと通していた戸ノ口堰洞門をくぐり抜け、城の見える飯盛山の松林にやっと到着しますが、そこから見た会津城下は既に火に囲まれていました。
城が簡単に落ちるはずがないという意見もあったそうですが、2時間に及ぶ話し合いの末、彼らは潔く死を選びました。残る3人は遅れて到着、やはり自決の道を選びますが、20名のなかで1人だけ蘇生、生き残った飯沼貞吉によって、白虎隊の忠義と悲運の物語は広く世間に知られるところとなりました。白虎隊をしのび、その霊を慰める剣舞は、春と秋の年2回行われる墓前祭で、飯盛山の19隊士墓前で奉納されています。
ちなみに、白虎隊は身分別に士中・寄合・足軽に、更に士中・寄合はそれぞれ一番隊、二番隊に分かれていて、飯盛山での自決で有名なのは士中二番隊なのだそうです。(参考資料/『会津白虎隊』歴史春秋社)
*劇中写真は、三月さまの素敵サイト『朧月夜』で御堪能ください(←オイ)


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