虎の巻争奪戦
「伊賀忍者対甲賀忍者の死闘」

[前説]
 今からおよそ400年前、関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は、伊賀の忍服部半蔵を使い、亡き太閤秀吉の埋蔵金のありかを記した絵図を、豊臣秀頼から奪った。この絵図を取り戻さんがため、真田幸村は猿飛佐助を放ったのであった。

(注)上演中の写真はありません。動きが早すぎて撮影できませーん。とほ〜。
左/鹿島択郎さん。右/水上煌博さん。寒そう。
水上さん。撮影者の好みのタイプだった様です。
猿飛佐助・曽我部芳行さん。格好いいというより綺麗になっていて、一瞬どなたかわかりませんでした。恋でもしたのかの?
舞台にあがって撮影させてもらいました。今はダメなの? この頃の豊臣方の忍びは、セリフが関西弁でした。確か「月光隼人」という役名でしたか。
左から、大島卓也さん、酒井博史さん、那智明義貴さん。仲よしさんだーね。
公演の合間は、大抵こうして遊んでいます。
左から、曽我部さん、酒井さん、高橋篤史さん。服部半蔵役は二人いるのですよ。
「ちゃっかり」
2ショット撮ってたんですよ。えぇ、まったく。
当社比1.2倍。大島さんと酒井さん。このコンビはつまりサイ×サス。
これは珍しい!お手伝いにきていた柳生十兵衛・藤原 保さん。普段は南町奉行所で大岡越前守だったり。
集金袋片手にすたすた歩いていた藤原さんを接写!ナマ腕がっ!かちょいい!裃つけさせとくの、勿体ないよう。
■ところで『虎の巻』
 よく、秘伝の書物などのことを『虎の巻』と称しますが、正式な『虎の巻』とは、源 義経が鬼一法眼の娘から盗んだ中国の兵法書、『六韜三略/リクトウサンリャク』の中の一つなのだそうで。文韜・武韜・竜韜・虎韜・豹韜・犬韜の6巻からなる巻き物中『虎の巻』だけが重視され、入手した後、義経は他の巻は全て焼いてしまったそうです。
 なぜ『虎』なのかというと、虎は毘沙門天のお使いだから。
 毘沙門天は、古代インド神話の「クベラ」が仏教に取り入れられたもので、梵名を「バイスラバナ」。仏法の護法・護世神で、甲胄を着た武神の姿をしています。四天王、あるいは十二天の一尊として尊敬を集め、北方の守護神であり、多聞天とも呼ばれ、また、福徳財宝を司る施財神でもあり、七福神の中にも加えられている武神です。
 毘沙門天が本尊の一つである鞍馬寺に行くと、渦巻き模様の「呵吽の虎」を見ることができますが、それがこの『虎』。稲荷だったら狐がいるトコロ。

ども!ウンチクタレゾウです。
今回は、前々から気になっていたからす屋敷前の立て看板内容について突っ込んでみました。


 ─ 告 ─
  戦国乱世を生きんが為 日本人の知恵の結晶
  忍術は 伊賀流・甲賀流をはじめ七十三流派の及ぶと云う
  松元流 福智流は 当下野国に伝承されたる忍法なり
  その秘伝を垣間見んと欲せん者は 迎え参上まで暫し待たれよ
  但し心及び肝の臓弱き者の入場は固くこれを禁ずる
                          忍者からす屋敷主人
看板内の文章ですが、色の変えてある行、ここが、謎。
「下野(しもつけ)国」とは「栃木県の旧国名。東山道の一国。略称「野州(やしゅう)」。平安中期以降、小山氏や足利氏 ・宇都宮氏などが勢力をはった。戦国時代に南西部は上杉・後北条氏 の勢力下に入り、南東部は宇都宮氏が支配した(学研学習事典データベース)」
という土地でした。もっと古くには蝦夷征討の前線基地として、また、平将門による承平・天慶の乱の際にも戦場と化しています。
そして、そのような地に伝わる忍術ですが、詳しい事はよくわかっていないようだす。唯一、資料があった『歴史読本ー特集・忍びの戦国誌』(新人物往来社)によりますと、

[福智流]江戸時代初期に宇都宮の福智有睡からはじまった忍術流派。伊賀流の一派という。内容は、孫子の用間編の兵法的要素が中心。二代目は大村知氏で、江戸中期までは存在した様子がうかがえるが、その後は不明。

[松元流]松本と書かれているものが多いが松元が正しい。江戸時代初期の松元六衛門が流祖。六衛門は、大阪夏の陣で戦死した大阪方の武将・木村長門守重成(豊臣秀頼の乳兄弟。噂では超☆美形)の流れを汲む人という。重成は、甲賀の伴党の人だから、甲賀の一派といえよう。内容は呪術系が中心。二代目が中川官兵衛、三代目は多田三郎兵衛だが、その後は不明。江戸の中頃までは敬承されていた様子。(甲賀伴党自体は現在も存在中。伊賀流忍者博物館名誉館長の川上仁一氏という方が甲賀流伴党二十一代目宗家。HPは、こちら

いやー、家にある資料ひっくり返しても、これ以上の事はわからなかったです。でも…、某雑誌をめくっていたら、巻頭ページにこんな写真が!
…何年この本持ってたんだろう。



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